2012/11/29

スーパースター


東京への遠征中は久しぶりに東京事変を聴きました。
惰性でいまも聴いている。
唇が乾いて、胃の中も破裂しそう。

もう喉を切り取ってやりたいわ、
だけどわたしは諦めがわるいの、
覚悟しておいてね。
いまは指先でうたうから、えがお。
声がなくなったって、喉を切り裂いたって、
わたしはうたう。
歌いたいの。
ちゃんと自分は知っている。
わたしの歌は終わった、なんて。

もう二度と言うなよ。
きょうはそれだけ、
たくさん夢を見た。


ごめんなさい神さま
なんでもするから。
声を返して。
うそだ、声がなくても、うたうんだろ、

感覚は決して易しいものではないよ、


しずかにめをとじて


おなかのなか



おなかが肝だよ




2012/11/28

想い色



大人になる季節が来たのかしら。
と、なんとなく思ってみる。

「結局○○、」なんていう口癖がついているようで怯える。
おおきく息を吸う、息を吐く。

もう白い。
うれしくって、尖った夜空に、何度も息を吐く。


あっという間に美術会が終わって、
休む暇もなくライブ、ライブ、練習、ライブ、の毎日です。
それでも何が違うのか、
まったく忙しいとは思わない。
体が思いどおりにならないときは、なんだかなあ、と思うこともあるけれど。

美術会のことは、まとめて何かのかたちで遺したい反面、
未熟な自分の実力や現実を突きつけられたような気がして、
ぐっと、おなかの底で、真摯に受け止めています。

たくさんのひとの力を貸してもらって、
たくさんのひとに足を運んでいただいて、
これ以上の、幸福は、ありませんでした。
その点は本当にこころから感謝をしています。

今回きっぱりわかったこと、決心したことがあって、
それは胸のうちに秘めて現実にすることで清算をします。

口に出すと、消えてしまうような気がします。

知っているのは先生だけで良い。


最近の興味は「しあわせ」と「結婚」です。
このふたつは別々の案件ですが、
「結婚」については答えがすこし見えてきた。
今の時点では、必要かそうでないかでの選択だけで良いのでしょう。

明日のことなんてわからないのに。
(わからないから約束するの?)
書類がなんの役に立つのだろう。
ただの紙切れで将来を契り合うなんて愚かに思う。

そんなのものに依るから、目に見えないものを失ってしまうんだ。
まいにち手を取り合ってこころを通わせれば済むお話しです。
(強い覚悟とバランス感覚と根気が必要)

まあ、自分と相手の人生を擦り合わせて生きていく感覚は嫌いではないけれど。
それと結婚することとはたぶん違う。
でも人それぞれだから、なんでもいいんだけどね。


「しあわせ」に興味があるのは継続的なことで、
言葉の意味を考えたりするというよりはそのように感じることに対しての考察です。
「しあわせだなあ」と、よく思うほうだと思うのですが、
思うだけじゃあ駄目なのだなあと思って。

背徳感をなくしたり、よろこびを隠そうと努力するのではなくて、
どうにかして他人に還元することが大切なのかしらんと思っています。
自分の存在だけでしあわせと感じることなんて稀なのだから。
(逆に自分が存在しないとどんなものもしあわせには成り得ないのだけれど)
それはまた違う論点。

結局自分のためだけに動くよりも、
大切なひとたちのために動いたほうが良い結果になることが多いのでしょう。
(ほらまた結局と言う)
自我を捨てることと似て非なる、
それをニュートラルに受け止めることが鍵です。

無感情は敵ではない。
そんなこと自然に思って受け入れるなんて、昔のわたしでは考えられない。

やはりいろんなことが毎日変わっていく。
自分がいちばん、変わっていくいきものです。
毎分、毎秒。
そのための時計かしら。


ト、きょうはここまで。
またこそこそと書きます。






2012/11/26

恢復






お元気ですか。
ずいぶんと、ご無沙汰をしています。

季節はすっかり冬のつめたい空気で、
わたしは年々、からだとこころがそれに慣れてきました。
あのころどうしてあんなに寒さにおびえていたのか、
ちっとも検討がつかないくらいです。

あなたはいかがお過ごしでしょうか。
こちらは、あいかわらずです。
わるあがきして、いったりきたり、しています。

しあわせなことに、まわりにたくさんのひとがいてくれて、
脳みそも、からだも、むかしよりは軽くなったし、
笑うことも、泣くことも、むかしよりは好きになったし、
あなたが愛した、このばかみたいな情緒不安定も、
すこしは受け入れられるようになりました。

さいきん、あなたがどれほどわたしを好きだったのか、
ふと、わかったような、気がして、それと同時に、
わたしは、あなたを、ほんとうは、好きでしょうがなかったんだと、
はじめて、すなおな気持ちで、
ほんのすこしだけ、わかることができました。

これを聞いたら、あなたは、どんな顔をするでしょう。
あの歪んだ口元で、苦笑いするのかしら。
それとも、中身のない満面の笑みで、あかるく相槌をうつのかしら。

迷うことは、ひとを、くらげのようにしてしまうけれど、
こうやってまわりみちをすることが、
どれほどじぶんにとって、たいせつなことか、
ようやく理解しはじめました。
それも、あなたは、すべておみとおしだったのかしら。

いま、あなたの、あのときの気持ちにすこし触れることができても、
あのとき何を考えていたのかまでは、どうしてもわからないのです。

ただ、わかることは、
どれほどわたしを想ってくれていたかということと、
それを、わたしは、とてもおぞましい感情で、憎んでいたこと。
ばかなわたしは、愛憎が同じものだとは、
あたまで理解していても、やはり、認めることが、できなかった。
そしてそれが、じぶんというものの弱さだという現実から、逃げてしまった。


齢を重ねると、ほんとうに、いろんなことが見えてきてしまいますね。
でも、そのなかで、なにを信じて、なにを選ぶかは、
生きているうちの、かけがえのない、自由なのではないかしらと、ふと思います。

あなたとの時間のなかで、たくさんのものを、もらって、
でもたいせつにできなくて、たくさんのものを、棄ててしまって、
そうして、また再び巡りあって、
こんどは、たいせつに、この手で抱きしめる機会を、与えてもらっています。
そしてこうやって、あなたと会わなくなったいまも、
あなたは、わたしに、たくさんのことを、教えてくれています。

失ったもののおおきさと、手にするしあわせは、
ほんとうはいつも、つりあいがとれています。
それは、わすれてはいけない、たいせつなことです。

わたしがこのしあわせを享受することは、
あなたを失いつづけることでもあるのかもしれません。

なんだか曖昧な表現になってしまったけれど、
わたしの知っていることといえば、それくらいです。
だけど、完全に理解するまでには、まだきっと、時間を要するでしょう。
そしてたとえ死んだって完全なんてものはない。
それもまた、理解しはじめたことのひとつです。


お手紙を、受け取って、最後まで読んでくれたことを、とてもうれしく思います。
感謝と尊敬の念をこめて。